阿部峻也 / Shunya Abe のプロフィール

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 名前 阿部 峻也(アベ シュンヤ)

 会社名 株式会社マップフィナンシャル

 役職 常務取締役

 生年月日 1988年11月10日

 出身地 岩手県

 出身大学 法政大学

 経歴
2011年 タカラスタンダード株式会社
2013年 プルデンシャル生命保険株式会社
2019年 株式会社マップフィナンシャル

阿部峻也の詳細プロフィール

詳細プロフィールは こちらをクリック!

劣等感に苦しんだ子供時代

 

出身は岩手県盛岡市で、5人家族(父はサラリーマン、母は看護師、兄と弟の男3兄弟)です。

小さい頃から勉強もスポーツも得意でしたが、兄は自分以上で常に学年トップクラス、いつも兄に負けてばかりで劣等感を抱いて過ごしていました

母は厳しく、褒められた記憶より怒られた(というより怒鳴られた)記憶のほうが多かったため、常に親の目を気にしていましたし、自己肯定感の低い子供でした。

中学生になると反抗期に入り、不良仲間とも絡むようになり、たびたび親と喧嘩をして家出をしたり、警察のお世話になったり、悪いことも結構してました。

 

兄は県内で一番偏差値が高い高校に推薦入学したため、私は兄に負けたくない一心で無理をして同じ高校を受験するも結果は不合格でした。

テストの点数は良かったと記憶していますが、いつも先生に生意気で反抗的な態度を取っていたので通信簿が悪く、高校受験でもそれが足を引っ張る結果になっていました。

浪人するか悩みましたが、周りが高校生になる中で自分だけが浪人ということに耐えられないと思い、二次募集で受験をして高校進学することにしました。

 

この2年後、弟は兄と同じ高校に合格しました。

兄弟が進学した高校に私だけ落ちるという現実に対して、「同じ親から生まれたのになぜ自分はいつも兄弟に負けてばかりなんだ」とひどく落ち込みました。

 

高校野球の経験から得たもの

 

高校受験に失敗した時、父親からこんな言葉をかけられました。

「人生思い通りにいかないこともあるが、後で振り返った時にこれで良かったなと思えるように前向きに努力しなさい、選んだ道を正解にする力のほうが大切だから」

父親の言葉には助けられました。

 

兄弟全員が小学校から野球をしており、高校もそのまま硬式野球部に入り、家から高校までかなり距離があったので、親元を離れて下宿生活をしました。

高校生活で良い経験になったのは、野球で県大会優勝できたことです。

「兄弟に勝てた!」と初めて思えた出来事であり、「親父の言う通り、腐らずに頑張ったらいいことあるもんだな」と感じたことをよく覚えています。

 

高校まで野球をして、先輩が読売ジャアンツにドラフト指名されたり、同じ中学の後輩で後にメジャーリーガーになる菊池雄星がいたり、高校の一個下の後輩が後に中日ドラゴンズにドラフト指名されて今や一軍で活躍している阿部寿樹がいたり、後にプロ野球選手となる人と同じチームで野球をしていたことを今振り返ると、実はとても恵まれた環境で野球をしていたんだと思います。

 

涙することになった就活

 

高校生活はまさに野球漬けの毎日でしたが、勉強では何とかギリギリ成績をキープできていたため、指定校推薦で法政大学に進学することができました。東京六大学なら知名度もあるし、とにかく田舎を離れて東京に行きたいだけでした。

 

大学生活は、留年こそしませんでしたが時間が許す限り仲間と遊びました。

何かを一生懸命に頑張った経験もなく、案の定、就職活動は苦労することになりました。

この頃兄は有名な大手上場企業に勤めており、「自分も高年収で誰でも知ってるような会社に行けたらいいな」「なんとなく年収1000万円ほしい」と漠然と考えていました。

ところが、周りの友達は就職氷河期なんて関係なく希望の大手企業の内定を勝ち取っていく中で、私は全く内定が出なくて取り残されました。このときは実力不足だと理解しながらも、高校受験の不合格を思い出し、「俺はやはりこうゆう運命なのかと腐りに腐りました。

 

ようやく、同じく就活に苦戦していた友人から「この会社受けない?一応上場してるし、まだ募集してるから」と誘われて、腐りながらテキトーに受けた会社からまさかの初内定。

これが後に入社することになるタカラスタンダード株式会社です。

確かに一部上場企業でしたが、全く興味の無い水回りの住宅設備機器メーカー、自分が目指した会社とは程遠い知名度と低い平均年収だったので、「この会社じゃ理想の社会人生活は送れない」と直観的に思いました。

ただ、就活を続ける精神的なスタミナはとっくに切れていたので、どうしようかと悩んでいた中で両親と会議することになりました。

わざわざ両親が東京に来てくれ、自分でもビックリだったんですが、「こんなはずじゃなかった」と居酒屋で号泣しました。(笑) そんな私に父親がこんな言葉を投げかけてきました。

「お前が行きたくない会社だろうが、今のお前では実力不足だから活躍できないと思うよ、社会はそんなに甘くない。まずは社会人として結果を出してみろ」

親の説得もあり、「まずは社会人経験を積み、結果出してすぐに転職しよう、悔しいけどこれしか選択肢が無い」と入社を決めました。

 

最悪の社会人生活スタート

 

2011年4月、タカラスタンダード株式会社に入社。

当時は東日本大震災直後で競合他社の生産ラインがストップした影響で受注が殺到し、社内は大忙し。

そんなタイミングで営業所の先輩が退職することにあり、まだ何も知らない状態で担当を持つことになりました。

当然のことながらミスやトラブルを起こしまくります。

先輩も忙しくて「話しかけんな殺すぞ」オーラ全開、前の担当だった先輩も退職してるし、誰に聞いていいのかわからない、どんどん仕事が溜まっていく、結果取引先から依頼された仕事の期限を守れない。

ミスを連発して取引先の温厚そうな方から「遊びじゃねんだぞ!?」と怒鳴られたり、「もう他社に任せるんで大丈夫です」と見切られたり、どんどんお客さんが離れて売上が減っていく。

メインの得意先は当初90%の受注シェアを占めていましたが、やっと仕事を覚えた頃には10%まで減ってしまいました。

「最初だから仕方ないよ」と同期は励ましてくれましたが、「自分はこんなにも無力なのか」と悔しい社会人スタートでした。

 

切羽詰まって、仕事を放置し続けた結果

 

この時期に「発注された時点で納期が間に合わない」というヤバイ案件が舞い込みました。

「詰んでるわ」と絶望しつつ、何か打開策は無いかと考えながらも目先の仕事に追われて数日経ちました。

結局、全く解決策が思い浮かばなかったので、「これもう無理だから放置してたら工事担当とか気付いて何とかやってくれるんじゃないか」と考え、一か八かその案件を放置することにしました。(笑)

 

すると、取引先の現場監督から電話が鳴りやまない、当たり前ですよね。

でも私は「発注書がまだ来てないんです」と、嘘を貫き通しました。

もちろん、先方も発注したという履歴が残っているし、簡単に嘘はバレました。

ただでさえ緊急事態なのに、その上で嘘をついて更に追い込まれた私は、得意先の現場監督(超イカツイ)と話すのが怖くて最終的には無視するようになりました。

 

すると数日後、留守電に、

「おい、これが本当に最後の連絡だからな?お前覚悟しておけよ?」

と入ってました。

「ヤバイ、殺される」と思った私は、ようやく全てを受け入れる覚悟を固め、その日のアポを全てキャンセルし、現場監督のいる現場に向かいました。

 

自分から行動することの大切さ

 

現場に到着して、即座に土下座をして謝りました。

すると現場監督が

「まあ、あんだけ言われてお前よく来たな。ちゃんと顔出して謝りに来たから許してやる。もういいよ。次同じことしたら許さないからな」

と怒りもせず、私のことを許してくれました。

現場監督が工事のスケジュール調整をしてくれて、現場はなんとか丸く収まりました。

同じタイミングで社内の上司にも報告をしたわけですが、怒られはしたものの、工場に連絡して生産スケジュールを短縮してくれたりして、結果的に社内外の人に助けられたんです。

私は当初、「誰かがなんとかしてくれるんじゃないか?」と問題から逃げたし、仕事を甘く考えていました。

でも、そんなわけなく、どうにもならなくなってしまった。

問題を放置しても、誰かが気付いて助けてくれることはない、自ら行動を起こし、なるべく小さいうちに問題解決すること、トラブルこそホウレンソウを徹底すること、自分だけでやろうとせず適切に周りに頼ることなど、仕事をする上で基本となることを学びました。

 

人間関係で大切なこと

 

入社前に「こんな会社行きたくない」と言ったのに、こんな仕事ぶりじゃダサすぎる、この出来事から全てを変えていこうと決めました。

生意気でしたが、上司や先輩、取引先に自分から頭を下げて教えを請うようになり、だんだんと可愛がってくれる先輩や取引先の方ができました。

ご飯や飲み会、ゴルフの誘いも絶対に断らず、仕事場以外で人間関係を作りながら社会人としての礼儀やマナーも学ぶことができました。

 

日頃の挨拶、そして約束(特に時間)を守ることへの意識、
ビジネスマンである前に人間同士なので、
まずはお互いの人間性を理解すること、
そして「ありがとう」「ごめんなさい」「お願いします」などストレートに言い合えるような信頼関係を構築することが仕事をする上で最も大切だとこの時期に学びました。

10%まで減っていたメインの取引先のシェアも、2年目には再び90%に戻すことができました。

 

稼げないことへの不満

 

社会人3年目になり、人間関係も売り上げも好調だったんですが、それでも一つ悩みがありました。

自分と周りの友達との給料の差。

毎朝7時に出社して帰りは終電くらい、土日もよく出社してたけど残業代も出ないし、手取りも安い、ボーナスも差がつかない。

大学の友人と飲んだとき、

「お前今いくら稼いでるの?」

「先月残業代入れて手取り〇〇万超えたよ」

「商社にいったアイツは数年後に年収1000万円確定だって」

「電通にいったアイツは月給〇〇万だって」

みたいな生々しい経済事情が耳に入るんです。

「なんで大学で一緒にバカやってたアイツと俺にこんなに差があるんだよ」他人を羨む気持ちと自己嫌悪でいつもイライラしてました。

合コンする時、私は会社名を言うのが嫌で、自己紹介をする時はいつも会社名を隠していました。更に悲しいことに周りの友達もそれに合わせてくれるのですが、一人になった時にとてつもなく虚しくなります。(笑)

自分を誇れない状況を何とかしたいっていう気持ちがフツフツと煮えたぎっていました。

 

プルデンシャル生命に転職したキッカケ

 

そんな3年目に転機が訪れます。

当時、社内で一番尊敬して慕っていた先輩にプルデンシャル生命からスカウトからヘッドハンティングのオファーがきており、その懇親会の席に僕も同席することになりました。

スカウトの方の話を聞いて、外資系金融の世界に衝撃を受けました。

自分が身を置く業界とは異なり、クビもあるけど、完全歩合制でものすごく稼げるチャンスもあるし、高級なオーダースーツやネクタイや時計を身に付けて、自信満々な立ち振る舞いでバリバリ働くような真逆の世界を知り、鮮烈な衝撃を受けました。

「阿部ちゃんの年収を月収でもらっている人なんてうちにはザラにいるよ」

私は平然とした顔でそうなんですね~と言いつつ内心、

「やべえええええええええええええええええええええええええええええ( ゚Д゚)」となっていました。

今の会社にいたら部長になってもそれは無理、話の全てが刺激と衝撃と落胆の連続でした。

 

帰り際、悔しい一言を放たれることになります。

「阿部ちゃんが今不満タラタラで仕事してるなら、一生そんな(中途半端な)人生になるね」

この言葉が自分の胸に突き刺さりました。

 

それからプルデンシャル生命のことが頭から離れなくなり、時間があればプルデンシャル生命のことを調べ、この会社で働きたくなった私は、スカウトの方にお願いしてなんとか面接を受けさせてもらいました。

プルデンシャル生命に転職するには本来ヘッドハンティングされる必要がありますが、私の場合は自ら志望する珍しいパターンで、「志願兵」と言います。(笑)

しかし、これが現在の金融の仕事につながる大きな転機になりました。

ちなみによく「なんで保険?」と聞かれますが、特に生命保険の仕事がやりたいわけではなかったです。

「自分に自信を持ちたい」「格好良い男になりたい」大げさですが、これまでの人生や生き方自体を変えたかったんです。

 

順調に上手くいったプルデンシャル1年目

※プルデンシャル転職後すぐ

 

プルデンシャル生命に入社して一ヶ月の研修を経て、生命保険の営業が始まりました。

「あ、もしもし? 実は保険会社に転職してさ、保険の話を聞いてほしいんだよね」

電話帳のあ行から全て、今までの知り合い全員に電話でアポを取っていきます。

知り合いから始まり、紹介で顧客を広げていく「紹介営業」がプルデンシャルの営業戦略です。

これまで友達だった人にいきなり営業の電話をするわけなので、お腹が痛くなるくらいの緊張とストレスを感じました。「ちょうど保険考えてたんだよね」とか「お前も大変だろうから話だけなら聞くよ」と快い返事をしてくれる人もいれば、

「久々に連絡してきたと思ったら保険の営業?二度と連絡してこないで!」「お前は周りを売るのか?」という新雑な言葉を浴びせてくる人もいます。

「自分の大切な人から保障をお預かりしなさい」というプルデンシャルのマニュアルを信じて営業に出るのですが、やはり身内へ営業することは大変なストレスで、何人にも断られて、「一体何のために転職したんだろうか」と考えることも度々あったり、悔し泣きすることもありました。

それでも、仲間や前職の同期や先輩後輩、前職の取引先に恵まれていたので、初月は当時の支社のギネス記録を更新して契約45件、成績優秀者が行けるハワイ表彰も決まりました。

 

※初めてハワイ表彰を受けた時

 

プルデンシャル生命では年間表彰基準をクリアした人間がハワイで表彰されるんですが、営業社員約4000名の中で上位10~15%くらいです。

完全歩合制ということでトップ営業マンは年収1億円を軽く超え、下位は年収0~100万円前後、月収で1000万円を超える方もいれば、月収1桁万円の人もいるという天地の差がある世界です。毎年ハワイ表彰に行ければ、年収2000~3000万円は軽く超えます。

 

転職1年目はその表彰行けたので、順調なスタートを切ったといえる状況でした。

ただ、スキルも余裕もない私は「攻め一辺倒」の営業や紹介依頼をしていたので、いろんな人と連絡が取れなくなりました。

連絡が取れない人に何度も執拗に電話する、勝手に紹介先に連絡しちゃう、何時間もクロージングをする、周りが見えていないから馬鹿みたいにゴリゴリやり過ぎて、当然契約になってもお客様の満足度や安心感は低いため、紹介なんて一切出ません。

 

転職1年目で年収は1000万円を超えていたので調子に乗って散財もしていました。人と会うためなら時間もお金も惜しまないというスタンスで毎日飲み会もして、見栄を張って多めに支払ったり、経費も重くのしかかってくるようになりました。次第に案件も枯渇し、活動資金も底を尽き始め、地獄の2年目を迎えることになります。

 

成績不振で会社にも行けなくなった2年目

※一見忙しそうだが、iPadの画面見ると予定スカスカ、見込み客がいなくて困っている時期

 

2年目には商談相手も、電話のかけ先もなくなってしまったんです。

一週間の予定を埋めたいのに埋まらない、紹介が欲しいのに全く紹介が出ない、紹介を依頼しすぎて嫌がられる、契約が欲しいのに商談相手には断られてしまう、結果、稼ぎたくても稼ぐことができない日々。

毎日が負の連鎖で、この頃に白髪の量が尋常じゃなく増えました。(笑)

 

プルデンシャルでは、当時1週間に3件の契約を取り続けたらあなたは成功する!という3W=SUCCESS(成功)という社内文化があり、新人は至上命題。

でも、商談相手もいないから契約0件の週がだんだん多くなる、週末はマネージャーから「今週は3Wどうする?なんか作戦ある?それとも諦める?」的な電話があり、なかなか諦めますとは簡単に言えないので、特に日曜はプレッシャーとストレスが半端じゃなかったです。

また、月曜日のミーティングで全員の前で先週の成果報告をするのですが、「3件です!」と契約があれば皆から拍手喝采&握手ですが、「0件です!」って言うとシーンってなるんです。(笑)

2年目のシーズンはそのシーンって屈辱を、1年の大半は味わっていました。

もちろん、目標にしていたハワイ表彰も達成できず。

 

入社~2年間が研修期間で、その後は本格的に完全歩合制。
売れている人だったら2年間の売上に対してボーナスが溜まっていき、2年満了時点で一気にポンと吐き出されます。人によって数百万円〜数千万円までの額になり、新人はこれをモチベーションにして頑張ります。

でも、僕の2年目の成績は散々。社内システムで来月以降の報酬がどれくらいなのかシュミレーションが見れるのですが、

ん?あれ、、、?ボーナス全然無い!

しかも、当時マネージャーからは、

「入社2年連続でハワイ表彰行けないやつは数年以内にみんな退職してるんだよね、阿部ちゃんまだ若いから2年連続でハワイ行けなかったら早く見切りをつけてこの仕事を辞めたほうやめたほうがいいよ」

と入社時に言われていたので、就活の時なんかよりはるかに鬱でした。

1年目はハワイ表彰もされてSNSにも自慢げに投稿して、周りから「阿部すごい!!成功してるやん!!」と言われていい気になっていましたし、格好だけ一人前になっていた私は高級スーツにブランドネクタイをして外資系金融っぽく振舞っていたので、周りからは「若くして成功している人間」に見えていたと思います。(笑)

見栄も張っていたし、このヤバイ状況を誰にも言えない孤独感、このままだと死ぬというプレッシャーでどうにもならない毎日を過ごし、現実逃避に夜は飲み会ばかりでクレジットカードで借金も作り、結果的に仕事からも会社からも自分を遠ざけるようになりました。

仲間と朝方まで飲んで、帰って目覚ましも付けないで寝て、起きたら夕方、仕事も無いし、また飲むか、という憂鬱な毎日を繰り返しました。

その時の私はそれくらいお先真っ暗でした。

 

開き直って死に物狂いで頑張ってみた3年目

 

3年目に入ってもその状態がダラダラと続きました。

この頃は社内のミーティングや研修もよくサボってて、相変わらず朝方まで飲んでは夕方起きるような生活で、ほぼ鬱病だったと思います。

報酬シュミレーションを恐る恐る見ると
来月、再来月と30、20、10万円と綺麗に報酬が右肩下がり、ついに前職の収入も下回るのか~と更に絶望しました。

 

もうさすがにどうにかしなくちゃマズイと感じ始めて、キッカケ探しを始めました。

内心ボロボロの私は僅かでも奮起できる、希望が欲しかったんだと思います。

その中で、ある方とお話をする機会がありました。

その方は元プルデンシャルの保険プランナーで、私が知り合った時には既にプルデンシャルを退職して保険代理店の役員をやっていました。プルデンシャルに在籍してた時は日本一の支社、営業所に所属しており、毎年表彰受けるような高挙績者だったので社内じゃ有名人で、私は一方的に名前だけ知ってて少し憧れていた方でもありました。

その方はおそらく成績が振るわず退職予備軍だった私をスカウトしようとしたんだと思います。

とはいえ、憧れの方だったので、何か得られるのではないかと思って、現状を正直に打ち明けて相談してみようと思ったんです。

その先輩は私の話を真剣に聞いてくださり、一切スカウトの話はせず、こう言ってくれました。

「セールスは数字にモチベーションを左右されちゃうけど、大事なのは数字を出すための日々の習慣ができているかどうかじゃん。阿部ちゃんはとりあえず働いてないんだから論外。まずしっかり働いて、その結果で進退決めればいいじゃん。話してる感じ、阿部ちゃんは力あるからしっかり考えてやったら売れると思うけどね。なんか勿体無いなあ。」

この言葉にハッとさせられました。

確かに今の俺、頑張っていない、、、働いてないのに悩んでる場合じゃない、、、

でも貯金も底を尽きてるし、半年本気で働いてみてダメだったらスパッとこの業界を去ろう。

根底にあったのは、

「自分を信用して保険に加入してくれたお客さんや応援してくれる仲間がいる。その人たちを裏切りたくないし、ここで中途半端に諦めたら一生後悔するし、二度と自信が持てなくなる。最後やれること全てやってその結果ダメだったら皆に謝って会社を辞めよう」という気持ちで、捨て身の覚悟で半年間仕事やると決めました。

 

しかし、これが復活劇の始まりとなりました。

その方にアドバイスされた通り、自分が確実に実行できる範囲で細かい行動予定と目標を立て、確実にやり通しました。

数字(売上)は一切気にしない、そして周りの目や声も気にしない、というよりどうでも良くなっていました。

見込客もいない私が具体的に何をしたかというと、周りに今の自分のダメな状況と、もう一度頑張ろうと奮起したという状況を正直に伝えるため、いろんな人の元へ顔を出しに行きました。

会って本気で伝えてみたら、周りの人がみんな真剣に話を聞いてくれました。

そして、「お前、困ってたんかい!もっと早く言えや!」「わかった、任せろ、何すればいい?」と、たくさん動いてお客さんを紹介してくれたんです。

社内では結果を出し続けている先輩に頭を下げて、先輩の家に泊まり込みでロープレ合宿などをしてもらいました。

その毎日を過ごしていたら、だんだんと暇ではなくなり、どんどん仕事が増えていき、次第に契約も増えていき、

気付いたら「あれ?もしかして表彰も狙える?」というところまできていました。

「表彰いけるかも」という淡い期待と、「果たして俺にできるのか?」という不安とが心の中で交錯していました。

でも、もともと退職寸前だった自分は失うもの無いんだから勝負してみよう、と思ったので、社内のミーティングで「今期、絶対に復活入賞します」と宣言し、あえて周りからの注目を浴びることで完全に退路を断って、自分を追い込みました。

すると、さらに応援の紹介が増えていき、結局3年目は後半の数か月でハワイ表彰の基準を達成しました。

1人の保険屋が会社の数字を追っているだけの話で、何も特別なことはないのですが、本当に周りの方々が応援してくれました。


1か月で数十人のお客様を紹介してくれた友人
もしきつかったら俺のとこに契約書持って来いと言ってくれた先輩
自分の仕事を休んで、遠くの出張にわざわざ同行してくれたビジネスパートナー
締め日に大きな追加契約をしてくれた経営者のお客様からは、

「お前はこの仕事で成功できると信じてるから、必ず結果出してくれよな」

と言ってくれました。

自分のことのように動いてくれる方々の存在で数字を達成できた、自分にとって仕事の価値観が変わる転機になりました。

 

感謝のお返しでさらに成績が伸びた4年目

 

翌年(4年目)は、力まずに表彰基準を達成できるほどの売上を上げるようになっていました。

そのときは、「お金が稼げているのは自分の力ではなく、周りのお陰。こんだけ周りに助けてもらったので、還元していかないといけない、今度は誰かが困った時に必要とされ、与えられる男になりたい」という気持ちが仕事の原動力になっていました。

具体的に何をしていたかというと、
異業種交流会を主催したり、
会社経営者や個人事業主の方には仕事に繋がりそうな案件を代わりにさがしたり、
お客様を直接紹介したり、
業者と業者を繋いでみたり、
働く社員を引っ張ってきたり、

友人たちには合コン開いてって言われたら、全力で美男美女を集めて合コンを開いてみたり。

生命保険に限らず、経済や税金、資産運用の知識を付けるべく積極的にお金を払って勉強会に行ったり、
詳しい専門家にアポを取って話を聞きに行ったり、専門書を読んだり、

とにかく、目の前の人は何を求めているのだろう、何が喜ぶのだろう、と考え、周囲に還元できることを探す、やれることを全力でやっていたんです。

すると、それを与えて喜んでくれた人が御礼にまた誰かを紹介してくれる、そうやって紹介の連鎖が生まれ、4年目も成績を伸ばすことができました。

その年には保険業界の上位2〜3%の人が該当するMDRT(Million Dollar Round Table)の会員資格も取得することができ、完全歩合制の報酬は前職の年収から7倍くらいになりました。

生々しい話ですが敢えて書くのは、私はもともと周りとの経済差を埋めたくて、稼ぎたくて転職したからです。

「世の中のために」とか「周りのために」とかそんな大義も無く、自分のために転職したのは事実です。

経済差を埋めるというのは、「兄弟や周りの同級生と比較してしまう弱い自分を変えたかった」そのためにはシンプルに仕事で結果を出して稼ぐことしか当時の自分には選択肢が無かったんです。

でも、周りのお陰で目的は果たすことができ、社内や業界でもある程度認められるポジションに立つこともできたことで、自分に自信を持てるようになり、周りと比較することが全く無くなりました。

この経験で、仕事をする上でのモチベーションも「自分のため」から「周りにどう与えるか」に変わりました。

 

マネージャーを経て、独立へ。さらなる人のために

 

この頃は会社経営者との関わりが多くなっていました。

経営者を近くで観察し、自分のことではなく他人(従業員)に責任や愛情を持つことができる人間になりたいと憧れを持ち、次は人を育てるステージに移りたいと思い、支社長に直談判して営業からマネージャーになりました。

就任当初からマネージャーとして採用自体はできていたのですが、自分が採用した部下に満足のいく結果を残してあげることはできませんでした。

セールスとマネージメントは全く別の仕事で、「自分が勝つのは当たり前にできてもいかに周りの人間を勝たせられるか」がどれだけ大変なことなのか、失敗と試行錯誤から多くを学びました。

自分が採用した部下が表彰を逃し、自分だけがマネージャー部門で表彰されたのですが、全く喜べず、むしろ悔しさしかなくてハワイ表彰を辞退したこともあります。

他人のことでここまで本気になり、自分のこと以上に期待して成功してほしいと思えば思うほど高いものを求めてしまったり、悔しい思いや悲しい思いをしたのも初めての経験で、「どうやったら人は変わるのか」この頃は外部でお金を払ってコーチングなどを勉強しました。

 

部下が結果を出さないとマネージャーも報酬を得ることができないため、報酬ダウンによる税金の恐怖などからマネージメントをしながら自分も現場に出て部下と同行して商談をサポートしたり、単独で営業活動をやったりして現場を完全に離れることはありませんでした。

そうして現場に立って生命保険の業界を知れば知るほど、1社専属の立場でお客様の全ての要望にお応えすることは不可能だということを現場で痛感している時期でもありました。入社当初は自社の商品が最強だと思い込んでいましたが、他社ではもっと内容の良い商品があったり、保険以外でも良い資産形成の方法があることを知っていく時期でもあり、自分の中での保険観が明らかに変わってきていました。

実はお客様からも、

「担当が大事なのは分かるんですが、他社とこんなに金額差があると悩みます」

「阿部さん他社の商品も扱えないんですか?」

「保険以外の資産運用も教えてほしいです」

と言われる場面が増えてきました。

今までは社内表彰を受けるためだったり、自分が稼ぐことがモチベーションとなっていたのですが、この頃はその気持ちが無くなってきており、お客様や周りの人にとって最善は何か、プルデンシャルが全てではない、と価値観が変わってきていました。

そのため、純粋に社内表彰を目指すことに対して疑問や葛藤が生じたり、部下にも自信を持って自社の商品の説明をすることができなくなっていきました。

この思いが、退職を決断するキッカケになりました。

 

今現在:FP(ファイナンシャルプランナー)として「お金の相談窓口」という仕事を

 

2019年9月にプルデンシャル生命を退社し、株式会社マップフィナンシャルの執行役員に就任。

プルデンシャルを退職するかどうか、本当に悩みました。私はマネージャーとして採用した部下もいて、担当させて頂いている多くのお客様がいて、自分が退職することは、「応援してくれた周りやお客様への裏切り」だと考えていたからです。

吹っ切れたのは仲の良かったお客様に相談した時に、

「辞めたほうが更にお客さんに良いサービスができると思ってるんですよね?じゃあ、なぜすぐ決断しないんですか?阿部さんの考えてることは絶対に間違ってないです、応援しますよ。これからもずっと担当だと思ってるので宜しくお願いします」

と言われたことです。

会社や部下やお客さんを裏切るのか?と言われると思っていたので、驚きもあり、嬉しさもありました。

保険代理店に移籍すると、前職批判をする人が多いですが、私はプルデンシャルという会社に心底感謝しています。当時社会人3年目の24歳で実績も無いただの若造でした。そんな私に挑戦の場を与えて頂き、多くの経験を積むことができ、間違いなくプルデンシャルへの転職を決断したことが人生のターニングポイントになったと思うからです。

 

現在は今まで一社専属の保険プランナーとしてではカバーできなかったお客様に、

様々な金融商品を組み合わせ、総合的にお金のアドバイスをするFPの仕事をしています。

メインは生命保険ですが、それ以外にもお客様に合う選択肢があれば、他の金融商品を勧めることもできる、
お金の総合相談窓口のような立ち位置を目指しています。

近い将来、証券仲介業務(IFA)を加えた形で、お客様の保障から投資までを一任して頂けるポジションで活躍するのが目標です。そのために、アメリカやイスラエル、ユダヤに精通しており富裕層の資産管理や資産運用で活躍されている金融の師匠に師事しており、世界経済や金融の知識を日々磨いております。

 

保険の実績としても、2020年、2021年とMDRT基準を約3か月で達成することができ、プルデンシャル時代に売上げた自己ベストを2倍以上も上回る結果を出すことができています。

昨年からコロナで金融業界にもデジタル化が広がる機会になりましたが、周りのアドバイスのおかげもあってスムーズにオンライン商談やセミナーに切り替えたことが大きかったですし、何より当時の保険しか知らなかった自分より、今の自分のほうが絶対にお客様の役に立てるという自信があります。

 

長くなりましたが、私がこれまでの人生で学んだことは、

「正解を探すのではなく、自分が選んだ道を正解にするため努力をすること」

「自分と直面し続ける」

「自分が得ることではなく、周囲の人にどう与えるかだけ考えて動くこと」

です。

お客様の人生やお金を預かる仕事だからこそ責任重大ではありますが真剣に向き合う仕事だらこそやりがいを感じていますし、この仕事が自分の使命だと感じています。

お客様がいてこそ私は報酬を得ることができ、この仕事も生活も続けられるわけで、この仕事は、他人の為になればなるほど、自分も豊かになることができます。

これからも、より多くの人の人生を自分の持つ金融知識で支えていく、その思いで日々業務に励んでいます。

 

阿部峻也のちょっとした情報

生年月日 1988年11月10日
血液型 A型
出身地 岩手県
出身大学 法政大学
経歴
2011年 タカラスタンダード株式会社
2013年 プルデンシャル生命保険株式会社
2019年 株式会社マップフィナンシャル
現職
株式会社マップフィナンシャル 常務取締役
座右の銘
小才は縁に逢って縁に気づかず、中才は縁に逢って縁を活かさず、大才は袖触れ合う他生の縁もこれを活かす
徳川将軍家 兵法指南役 柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)(柳生新陰流)
参考本
ユダヤ人の成功哲学「タルムード」金言集(哲学) / 石角完爾

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